帆がない

ことばから見えてくる民族的背景

「傘がない」は1970年代初頭の井上陽水の作品であった。爆発的に増殖したアジアンタムのような髪を頭に載せ、ジージャン上下の彼の姿が世に現れた。歌は将来についてまだ方向が定まらなくて、何を目指して良いのやらわからない若者の脱力感と自身の恋情との交錯を表現しているのだろうと、そんな印象を私はその歌に持った。今思い起こしてみると社会の中で、この世代と無気力という言葉が一つ括りにされてきたのもこの頃ではなかったかと思う。私もこの世代に春のような怠惰な空気に襲われそうになった事を経験的に知っている。本日の考察はこの時代に青春を謳歌したお父様達に焦点を当て、「帆がない」を取り上げてみたい。

この時代は学生運動も圧倒的な権力によって、その活動の終焉を余儀なくされ、若者達の心は敗北感に支配された。或いは中には活動そのものが凶暴の道へと方向を転じたのに辟易し、鎮圧されることに人知れず安堵感を覚えた者もいたのかも知れない。過激派が潜伏していたアジトへの強制捜査のニュースも次第に数を減らしていった。

何れにせよ、エネルギー放出の矛先を失った若者達は企業戦士にその身を変え、その後ニューファミリーと呼ばれる社会層への仲間入りをしていった。一方では怠惰な世界へ流れ込む若者達がいた。ヒッピーである。口々に平和と自由を唱え、その実、やっていることはただひたすら怠惰であった。ベトナム戦争で死んでいく若者達のニュースと対象的に映ったのを覚えている。然しそれは一つのことの表裏だったのかも知れない。そのような時代にラジオから流れてきたのが「傘がない」であった。

そして現在、世代はそのジュニアに交代し、再形成されることになった。親の世代とはうって変わり、少子化の社会である。大事に育てられ過ぎた節もある。フリーターという言葉も生み出した。親に寄生して自立しないという意味のパラサイトシングルなどの不名誉な言葉も出てきた。そこでは自身で生き方を決めて、如何に燃焼していくかという人生哲学は放棄されているように映る。進むべき方向がわからすに立ち止まっているのだろうか。自由の定義がはっきりしていないように見えるのは感染しているせいだろうか。この現象はジュニア世代だけで作り上げたものではない。戦争を知らない親達との合作である。動物社会学によると動物園で飼育された後では自然界で生き延びていく事は困難だそうだ。

「帆がない」という表現が私の住んでいる地域で使われている。恐らく「穂」ではなく、「帆」であると私は確信している。意味は一言で、いい加減な奴を指している。言動が定まらずに一貫性がない人を指すときに使われ、「あの人は帆がないので大事は頼めない」と言う具合に使う。この表現の生い立ちを想像するに、船と帆の関係からきているのでないか。帆がなければ船は正しく進路を決めることができず、風に翻弄されるしかないことからきているのではないかと考える。

然し、土地の会話を良く聞いていると上述のいい加減なイメージだけではないようだ。そのような相手を容認し、愛着を込めている節もある。常識を打ち破り、捕らえどころがなく、奔放な男のイメージを持つかのようにである。戦国武将の織田信長が幼い頃、廻りから「うつけ」呼ばわりされ、その才能を危ぶまれたそうだが、周囲の常人にはその「うつけ」の言動から、彼の頭の中を読み解くことができなかったように計り知れない者への畏敬かも知れない。

「傘がない」世代である若い彼らのその後は、帆がない船と同じように社会に翻弄され、厳しい荒海を試行錯誤しながら漂流し、やっとのことでここまで辿り着いて来たものもいることだろう。また「寄らば大樹の陰」を選択した者達は静かな海であっても、ちゃんと帆を立て、自分の進路と家族の安全を羅針盤と照らし合わせながら大した困難もなく辿り着いて来た者もいよう。信長ほど、智略で豪胆ではなかったにせよ、どちらも懸命に生きてきた。定められた航路に従い進むほど面白くないものはないと恐らく信長も思うに違いないが、一度きりの人生だ。自分が思うように生きたら良い。

私は人生の「帆」はスタート地点では、その使い方をむしろ知らない方が良いのではないかとさえ思う。社会の海に揉まれながら自身で習得していくプロセスの中にこそ、宝物が隠されているような気がしてならない。私は団塊世代に少し間をおいて、その尻尾を追いかけるように今日まで生きてきたが、未だに上手に帆を立てることができないでいる。然しそこに面白さと次の目標を感じる。恐らく帆立ての習得には終わりはなく、その過程こそが人生なのだろうと考えている。

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熟柿

ことばから見えてくる民族的背景を考察するから今日は「熟柿」を取り上げる。
昭和中期の頃に遡りますが、子供達は白く強張った袖口で尚も落ちてくる洟を拭きながら晩秋の「ジュクシ」を狙って竹棒で柿木の枝を突付いたものである。今になって思い出すとこの洟垂れ小僧達と彼等が口にする「ジュクシ」という名詞との組み合わせに何とはなしの違和感を覚える。

これは「ジュクシ」とも「ズクシ」とも読むが普段の会話に出てくるような言葉ではないように感じる。九州地方では子供の頃、よくジュクシを採って食べていたなどと耳にします。意味は文字通り赤く熟れて柔らかくなった柿である。渋柿でもこうなると渋が抜けて美味しい・・と感じた。この言葉について少し調べてみると中世の鎌倉時代から室町時代に端を発した猿楽或いは更に発展した狂言で引用されていたようだ。「熟柿臭い」又は「熟柿首」という形容で使われていたらしい。それぞれの意味は酒を飲んだ人の臭い息、又は落ちやすい首と相手をののしる時などに使うのだそうだ。

狂言は当時、相撲(すまい)の節会(せちえ)や内侍所御神楽の夜の余興として行われていたものであるから場所は宮中であり、見物人は天皇を始めとした貴族である。古くから口語体ではあまり使われていなくて狂言で引用されたり、歌詠みに用いられたりしそうなこの言葉の響きはどのような経緯で連綿と九州地方に引き継がれてきたのであろうか。私が知る限り小さい時分に祖父母が野良仕事の合間に土手に座って和歌を詠んでその短冊を川に流していたなどと言う記憶は一切ない。

やはりその当時から使われていたと思しき言葉で私の郷里の九州の小さな村で変化したと思われるものがある。「采女:うねめ」である。「采女」というのは宮中で天皇、皇后の雑役に従事する女官のことである。「采女」をこの地では「ウナメ」と変化させ、女の総称として使ってきたのである。人間に対して使うのならともかく、家畜の牛に対して使っていたのであるから冷汗が出る。自分が飼育している雌の牛に女官を意味する「ウナメ」と称して憚らないその飼い主はいったい自分を誰に見立てていたのであろうか。このような宮中言語は平安以降、都であった今の京都に残っているのであればそんなに不思議ではないが遠く離れた九州の片田舎である。伝説として平家の残党と深く関わっているということを聞くがその事に関与しているのだろうか。交通が閉ざされた過疎地であったからこそ連綿と受け継がれる条件と成り得たのであろうか。

もうひとつオリジナルの言葉がこの地で変化していったと思われるものがある。高千穂神楽のクライマックス近くの舞に登場する「細女:ウズメ」である。正式には「天細女命:アメノウズメノミコト」の舞ということになるが、この地ではそれを「細面:ホソメン」と呼ぶ。何故そう呼ばれるに至ったかを推察すると、飽くまでも筆者の想像の範囲ということになるが最初の「細女:ウズメ」が「ホソメ」と勝手に読み替えられた時期を過ぎ、次第に「細面:ホソメン」に変化したのではないかとみている。このように長い時間と距離を経て言葉は多少の変化を伴いながら引き継がれていくのは仕方のないことだろう。

しかし「ジュクシ」のようにそのまま変わらずに残る遺伝子もある。この遺伝子一つに小さい頃の多くの事柄が抱有されていて懐かしく思い出すことができる。更に伝継されてきたこの言葉のお陰で中世の人々が仰ぎ見たであろう同じ土地の遠い晩秋の空と、その時の彼等の感慨を自分の事と重ね合わせて想像できたりもしよう。これまで伝承されてきた民族性を失わずに時代を更に積み重ねていくことができる言葉の遺伝子があるとすれば、現代の日本社会がそれを育んでいける豊かな土壌を持つ細胞組織のようなものであってほしいと願う。なぜならば民族の独自性と普遍性とを併せ持ちそれを失わないこと、またそのことへの相互理解がインターナショナライズの第一歩になると思うからである。

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ゲンコツ

「ことばから見えてくる民族的背景を考察する」から今日はお父さんのジレンマを取り上げる。
本日のテーマ:カンクツムシラカッソォを考察する。

この言葉はイタリアカンツォーネの題名などではなく北浦という地域で昔からよく使われていた紛れのない日本語である。彼の地の悪たれ小僧共はこの爆弾が落ちる度にクモの子を散らすように逃げ惑った。漢字で書くと「拳骨を毟り食らわすぞ」となる。
普通に「拳骨を食らわす」であれば何ら疑問などないがこの「毟り」ということばが敢えて間に入ってくると気になる。何だろうとなる。

「毟り食らわす」とただの「食らわす」とにいったい何の差があるのだろう。本来「毟る」というのはそこに存在するあるモノを、例えばモノの表層から無理やり引きちぎるという意味で使われるのが一般的である。それでは「カンクツ」というのは拳を握り締めて作るものではなくて、もう既にそこに存在しているモノでそれを誰かが毟り取って食らわすものであろうか。木に生っている林檎を毟り取るようにしてそれを食らわすのだろうか。そうだとするとそのモノとは林檎ではなくて柑橘の類となろうか。「カンキツを毟り食らわす」ということになる。本当だろうか。

判然としないが先に進むことにしょう。次にそのカンキツを特定したくなるがそれはいったい何だろう。夏みかんであるとかハッサクではピンとこない。褒美の感が強い。それは猿蟹合戦の渋柿のように相手にダメージを与えるものでなければならない、そうでないと相手への打撃効果が薄れてしまうからだ。「当って痛くて渋くて食えたモノではない。」でなければならない。
ここまで考えると頭の中に自然と浮かんでくるのは青くて酸っぱくてそのままでは食えたものではないカボスだ。「カンクツムシラカッソォ」という意味は実は「カボスを毟り取って食らわす」という意味だったのだ。しかし何か変だ。言葉にその情景が浮かんでこない。

英語に It comes up from in the air. という表現がある。それは何もないところから急に現れたり生じたりするという意味だ。実は「カンクツ」もそうではなかろうか。
怒り心頭に達したお父さんの思わず頭上に振りかざした手のひらがクルリと空を切るや否やその手はもう拳を掴んでいる。その空を切る様がそこにあるはずのない所から拳を毟り取ったかのような動きに注目をして生まれた言葉ではなかろうか。

その解釈が正しいとすると「毟り食らわす」と、ただ「食らわす」とでは表現が格段に違うことになる。眉間に青筋をたて、怒りに上気したお父さんがもう自分を抑えられないところまできて、震える手で頭上に空を切り拳を握る情景をこの言葉は言い表そうとしているのではないか。思わずかざした手を我が子に振り下ろすことができずにいる親父のジレンマと危うく拳骨の難を逃れた悪たれ小僧とのやりとりが浮かんでこないか。

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スルメ烏賊の好物は大根の味噌漬け

建築事務所での修行時代に良く行ったイタリアンレストランがある。場所は青山学院大学から少し並木橋へ下るところにある。今は全国展開しているお店だが当時はまだそこ一軒だけでした。オーナーシェフの本田さんもまだご健在で仕込みが終わったころの時間にお店の前で休んでおられて会釈をしてくれていたのを思い出します。残業のときの(建築事務所は残業のない日はほとんどない。)夕飯に時々行っていたのですがそこは一人では行くに行けないお店だった。一人で食べきれるメニューを置いていないのである。スパゲティでも男二人にひとつはちょっとキツイ。

いつも同僚と数人で行くのだが頭数の半数の料理を注文するのが鉄則。そこでの食事の他にもう1つの楽しみは新参のカップル客の観察である。お店が小さいので相談している様子がよく聞こえる。

「私はベーコン入りカルボナーラにしようかナ」
「それじゃオレはペスカトーレにしよう。サラダも注文しようか?。」

などという会話を隣で聞きながら笑いを堪える。ストレスを溜めている頭には適度な刺激となるのである。そしてその期待は十数分後に絶頂に達するのである。二人のテーブルに3品が並んだ時のカップルの顔を見たときにである。小さなショーのカタストロフィーと満腹感を得てスッキリとしてお店を出る。そしてまた終わりのなさそうな仕事に戻るのである。

そうそうイカの話である。そのお店の「イカとツナのサラダ」が美味しい。非常にカンタンなものである。サラダは元来カンタンではあるが。イカのボイルとツナのオイル漬けがレタスの上に載っかっているだけである。少し酸味の利いたドレッシングに程よくマッチしていてとても良い。休みの日に何度か自分でも作って見た事がある。そして自分流ができた。イカはできるだけ新鮮なものを手に入れ、お腹にある肝(塩辛に使う茶色の部分)を残すのがポイント。この大根の味噌漬けのようなものは新鮮のうちは沢庵のように輪切りができるのである。それの粘膜を破らないようにしてイカを丸ごと使います。茹で上がりを輪切りにしてレタスの上に載せます。ツナのオイル漬けはツナ缶を使用するか、さもなければなくても良い。ドレッシングは手製を薦めますが面倒であれば既製のイタリアンドレッシングでも良い。種類としてはスルメ烏賊がこの大根の味噌漬けのようなものを腹にいっぱい溜めているのでこの料理に一番適していると思う。

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八ヶ岳登山紀行 初夏編

午前10時には山腹の行者小屋についてまずテントを張り
荷物をそこにおいて軽装で八ヶ岳山頂の赤岳まで登ろうというのが入山する前の計画だった。

金曜日、仕事もそこそこに切り上げてパッキングに取り掛かったのは会社に勤めている人々がまだおやつのお茶を飲み干し、これから残りの仕事に取り掛かろうとする頃だった。
荷物の準備は整った。これからは風呂のない所に行くので少し汚れた体に熱いシャワーを掛け、髭でも剃って身奇麗して出掛けようと思い浴室へ向かった。都会の生活からできるだけ遠ざかり、人間本来の自然の中にしばらく身をおこうとした思いから発した山登りなのに行った先の所で普段の生活の延長をまだ引きずろうとしているようだった。その夜は車で入山口まで行って車の中でウイスキーを飲んだ後寝袋に包まった。

梅雨時期の登山なので天候がめまぐるしく変わる。ましてや山の天気だ。知りうる限りの情報を元にたてた計画は初日に殆どの山岳行程を済ませ翌日は下山だけにして八ヶ岳山麓の温泉にでも入った後、地元の美味いうなぎ屋にでも入って冷たいビールで今回の労を労おうと考えていた。二日目はもう朝から雨になると思っていたからだ。

中腹の山小屋のそばでテントを張り終わっていざ残りの山頂までの行程に向わんとしようとした途端に雨が降り出してきた。
oh boy! 登山計画は時間に拠るところが多いのだ。これから山頂まで行って再びここへ帰ってきて明るいうちに夕飯の準備に取り掛かるには遅くても夕方4時には戻ってこなくてはいけないのだ。雨のやむのを待っている時間なんかない。

山頂まで行くには比較的安定したはずだった初日しかないと思っていたのにすぐに止むだろうと思った雨は予想に反して次第に本降りになり、それを通りすぎて豪雨に近くなってきた。
これからのルートは山頂が近いので岩場が続出することになる。無理をしても登山としては面白いものにはならないだろうと思い、くやしいけど山小屋で酒を飲むことにした。まだ昼前であった。辛いことになる。時間を持て余す。たぶん昼寝もするだろう。そうなるとテントの中の夜は想像を絶するほど長いものになるだろう。
背中が痛くて眠れない悶々とした時間がテントの中で永遠に続くことになろう。
などと思いながら山小屋で買った割高のビールを飲み干した後、こんどは自前のホットウイスキーを流し込むことにした。

最近の登山では夥しいほどのオバサン達を見かける。
場所をわきまえない言動と節度のなさに閉口させられときがある。
ある日、確か丹沢の何処かだったと思う。トランジスタラジオの歌謡番組にチャンネルをあわせたオジサンとオバサンの一行と偶然、併行して歩く羽目になったことがあった。ブナ林から漏れてくる光が下草の熊笹に差し込んでくる風景の中で北島三郎を聞くことになった。死にたくなった。

しかし今回の登山では入山のときから大学の山岳部とかサークルの連中が多く目に付く。しかも方々の大学が八ヶ岳を目指したらしく、山は若い連中の屈託のない歌声と怒号と化粧気のないジャージ姿の娘さんの汗が周囲にこだましている。その光景が若々しく新鮮に感じられた。
最近の妙な言葉とどこから湧いてくるのかわからない思想を持つ或いは何も持たない昨今の若者に辟易していただけの印象が少しだけその救いを得た。

恐ろしく長い時間の後、二日目の朝がやってきた。何度目か知れない目覚めの時、テントに打ち付ける雨音はもうしなくなくなっていた。
周囲ではもう山岳部の連中が何か今日起きるであろう希望に声を弾ませていた。
その声に雨の気配が完全にないことをテントの中で悟った。
時計を見ると朝の4時半を指していた。もちろん夜はもう明けていた。
すぐにテントをたたみ、熱い紅茶で冷たいパンを流し込みながら、前方の霧が一部晴れた箇所から去年登った穂高連峰とその前に登った槍ヶ岳に続く北アルプスの全貌を見入り、その時の記憶を探ろうと試みた。先程、テントのそばにいた学生と同様、今日現実に訪れるであろう希望に胸を膨らませながら尚も冷たいパンをかじり続けた。

赤岳山頂にたどり着いたわずかな時間だけ、幸いにも360°の視界が開けた。
「天ここにあり」と感じた。先程見た北アルプス。立山連峰、富士山、近景には麓の蓼科高原、野辺山高原等々の景色が映る。太い木材でこしらえたデッキの上で朝食を作っている人たち、記念写真を撮っている初老の夫婦、ここぞとばかりの学生の怒号に似た歌声、娘さんの汗とそれを玉に撥ね返す若い肌と白い笑み。八ヶ岳の夏が始まろうとしていた。

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八ヶ岳登山紀行 初冬編1

風が一段と強くなってきた。紅葉が終わり梢はもう葉っぱ一枚すら残してはいない。小枝と小枝の間を通りぬける強い風はヒューヒューと冷たい音を発て、枝は狂おしく揺り動かされ、幹までがその動揺を隠せずにいた。西高東低の冬型の気圧配置は今シーズンになってまだ幾度もなくこれで2度目か3度目だと記憶している。夜半から荒れだした北西風は朝になっても止むことを知らなかった。これから登る山を見上げてみたが山はその裾を少し見せてくれるだけで全容を見せてはくれない。中腹から上は靄に覆われている。
登り始めた太陽がその低いところから弱い陽光を射し込んでくれている。それだけがその凍てつく朝に安心を与えてくれた。

東京を暗くなってから発ち小淵沢のインターをすべり出たのはもう10時を過ぎていた。途中僅かな食料と必要品を買い求め八ヶ岳山麓にあるここ観音平に着いたときはこの時期ではもう山に入ろうとする者などいないのか我々の他は車一台すら見ることができなかった。冷たい風が吹いていたがまだそれは小枝を揺らす程度のものであった。ワンボックスタイプの車の中で別に用意したバッテリーに照明器具をつなぎ灯りを確保し、携帯燃料で沸かしたお湯でホットウイスキーを作りそれを流し込むことにした。暖を取ることとその後の熟睡を得るためにはこれに限る。喉を幾度か通り過ぎた熱いものが次第に体を温め、それが脳に達した頃、気持ちが弛緩しはじめてきたのを覚えた。飲むにつれ外の風は怒りを増長させていくようにうなり音を発し始めた。

車の中の亜空間に身をおいた酔漢にはその音は別の世界の出来事でしかなく次第に耳から遠くなり明日への不安も消えていった。自然の摂理はその現実逃避を長い間は赦してはくれなかった。小用のためその小さなバリケードから出ることを強要された。酔った目はうなり音を発てている風の向こうにあるはずの漆黒の山肌を探し、うつろな思考は再び自然の過酷を突き付けられ現実に引き戻されてしまう。もはや山が人間を受け入れる時期は過ぎてしまっているのではないかと萎縮した気分にさせられる。全てのものが寝静まる夜と荒れ狂う自然の前では人間の思考は自ずと先細りとなるのかもしれない。覚醒している部分が酔っ払いにそう告げた。

北アルプスでは冬型の気圧配置になると日本海側を含め一帯が降雪となる。
しかし八ヶ岳周辺はその地理的位置により日本海側の気候条件下で直接捉えられることはない。日本海の水分を大量に含んだ空気はアルプスを越える際に雪に変わり、山々にぶつかりそこに落されていく。それを乗り越えてきた比較的乾いた空気が内陸へ吹き込まれるから八ヶ岳周辺一帯は冬型の気圧配置下では太平洋側と同じように晴れることが多い。然し山頂の標高は北アルプスの山々と遜色ないので厳しい気象条件となる。

登り始めて2時間もした頃から山は陽光を失い、風が白い塊を運んできた。それまでの景観は下草の笹に覆われていたがいつのまにか周囲は苔に変っていた。数年前に行った南の島、屋久島を思わせる一面の苔の世界に包まれた。この植物の様子から見ても季節を通してこの辺りは靄が発生しやすく苔を育むに好ましい条件になっていることを教えてくれる。亜熱帯の屋久島でも初夏の山頂で経験したように、その白い空気の塊は雹となり音を発てて我々を拒み始めた。小さな氷の球が降り注いで枯葉の上、肩の上、そこかしこで白い粒が跳ね踊る。それでも足を上へ上へと運んでいるとやはり汗を掻いてしまうがそれも僅かな休息の間に凍てついてしまう。

この辺りの標高で雹が降り出してしまうと山頂から僅かに下ったところにあるテント場辺りの様子が不安になってくる。夏でも日が落ち始めてからの山の重い急激な気温の低下はもう何度も経験している。抗いようのない途方もない力で地表の熱は奪われていく。山の神の所業を感ぜずにはいられない瞬間であり、大自然の前では知恵なしでは人の生命なんて蚊とんぼのようなものであることを痛感させられる瞬間である。

中腹の山小屋に近づくにつれて天気は回復し始めてきた。風は依然として止んではいないが陽光は再びそのやさしさを現し始めた。その頃から周囲の木々にシャクナゲが混ざり始めたのに気付く。標高が高くなるにつれてその数が増してきた。初夏に登った八ヶ岳の主峰である赤岳にはこの植物の自生には気が付かなかったが一峰に数えられるここ権現岳に至る登山道には夥しいほどの数のシャクナゲが自生していることに後で気付く事になる。山歩きをする度に頭の中にその香りが突然、侵入してきて一斉を洗い流してくれるように感じる瞬間がある。樅ノ木とかのマツ科の植物から放たれる森林浴に代表されるaromatherapy効果のある匂いだ。

この匂いを嗅いだ瞬間、日常に溜まったストレスが一つずつ剥がれ落ちていくのを感じる。特に脳の部位が薬草のようなもので洗われるような気がする。なんとも言えない瞬間だ。人間の遠い遺伝子の中に刻み込まれている記憶が呼び戻されている瞬間なのだろう。森林浴とはまさに人間の個体種が生みだされた原始の環境に身を置くことから得られる心身の浄化に他ならない。ジョン・レノンが作曲をしている際に「イメージしているのはもっとカンナ屑の匂いがするようなものなのだ!」と言ったという逸話がある。共通したものがあるのかもしれない。それはともかく、時には辛く感じる登山にその魅力に引き付けられ、再び山に呼び戻されるのはこのような原始の記憶が作用しているのかもしれない。従って富士山のような植物を持たない山には魅力を感じることができない。

初冬編 2 に続く
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八ヶ岳登山紀行 初冬編 2

編笠山の肩が目前に迫り出した頃、登山道の行く手が明るくなってきた。権現岳への中継点である青年小屋がもう間近であることをそれは知らせてくれた。
然し入山の際に見た立て看板には今回のルート沿いにある山小屋は全て今シーズンの役目を終えて春まで閉ざされてしまっていることが告げられていた。
編笠山と権現岳との谷間に位置する青年小屋はひっそりとその佇まいを閉じて周囲の景観に孤立していた。谷間を吹きぬけていく白い塊が風に陵辱されながら小屋の屋根を覆っては消えていた。

錆色が所々にじみ出ているトタン屋根はその光沢をとうに失っているがそれは同じように外壁にも使われていた。小屋そのものが朽ちた金属の物体が放置されているといった具合だ。
それでも厳しい自然の中では人間の命を守ってくれる頼もしい味方にある。本来窓のあるべき所も冬を越すためにしっかりと閉じられていた。
この小屋のある中腹には相当数の幕営が可能である平地を有していた。
歩いて4、5分で水場があることを赤い文字の看板が教えてくれた。

テント場には誰も居なかった。今晩ここで幕営をするのは我々二人だけなのだと多少の不安と面白さが頭の中で同居した。誰も居ないのだからこの幕営地の一等地を探し求めた。
この辺りは高所で沁み込んだ水が再び地表に現れるところのようで湿地の様態であった。比較的高い所に毛足の長い草が枯れて地表を覆い、風上側に樅ノ木の群生が要塞を作り出している格好の場所を見付けることができた。我々はそこにテントを張り、昼食の準備に取りかかった。

準備といってもお湯で紅茶を作るだけのことだ。パンとサラミを交互にかじる。時にはレトルトのお粥を温めるときもある。貧素である。
山歩きのザックには命を大自然から守る大変重要なものから登頂の際のささやかな楽しみを得るものまでの必要品を上手にまとめて入れてある。それでも18kg位の重量になる。
それを背負って一日7、8時間山道を歩くわけだから食料はどうしても簡素にせざるを得ない。そのような事から私にとっての山歩きに関するイメージは役行者が行う修験のようなものであると頭のどこかで感じている。修行、禁欲、原始への回帰というイメージがどこかにある。実際は楽しめる範囲で表面的に行っているに過ぎないが。

我々はそこに幕営を済ませた後、水とカッパとお菓子を小さなバックに詰め替えて権現岳を目指した。行程的には一時間半くらいだ。夕方前にはここに戻ってこられる。
うまい具合に両方の肩、編笠山も権現岳もその全容を現し始めた。幸運が我々側についた。編笠山と西岳が見下ろせる所まで登ったときに景色は一変した。
ダケカンバ、ナナカマド等の木々が全て霧氷と化し、あたり一面を純白に染めている。木の形がそのまま白い氷のシルエットに置換えられてしまっている。
木肌の風上側に扇子を畳んだ位の大きさで白く積み重なっている。どのような木肌、色合いを持ち合わしていてもその白さの前ではそれは影にしか見えない。

氷が主役を演じて本来の木が黒子を努めている。自然が創り出したそのコントラストの見事さにしばらく呆然とした。我々が立っているところはシャクナゲの群生地になっている。
そこから見える北西風が吹きつける斜面一帯は上方も下方も霧氷の林になっている。春の山で見ることが出来る桜の木の満開を髣髴させる。凍った桜だ。これまで春の雪解けと新緑、夏のお花畑、秋の紅葉とその都度の山の装いを楽しませてもらったが目の前に広がる初冬の装いのすばらしさには言葉を失った。穏やかな世界では決して見ることの出来ないもの、厳しい緊張の中で初めて創り出される自然の造景である。

権現岳の頂は三つほどの峰がありそのうちのどれが正式に権現岳と呼称されているのか最初のうち判らなかった。そのうち大きな岩の上に矛が天に向かって祭られてある場所に権現岳の名称を確認できた。ここは八ヶ岳のなかでも一番南に位置する峰で、ここから北に向かって他の峰が続いている。すぐ目の前に八ヶ岳の他の峰峯が悠然と対峙している。
それぞれの峰が固有の岩肌と形を顕示している。しばらくその雄姿に目を奪われた。赤岳の名前の由来、硫黄岳の荒々しさ、阿弥陀岳の丸みを帯びた雄大さ、横岳の向こうには蓼科山が見え、車山高原、霧ケ峰高原とつながり稜線は諏訪湖へと落ちてゆく。

夕餉はなかでも立派だ。パンの他にクリームシチューがつく、といってもレトルトだ。
それらを戴く前に今日一日の無事に感謝し、山の神を招いてささやかな酒宴を催さなければならない。この冷え込みにはホットウイスキーでおもてなしすれば神様もきっとお喜びになられるに違いない。権現岳から帰ってくると我々の他に二張りのテントを確認した。何れも単独登山者だ。

相当の経験者でなければこの時期、単独ではやってはこないだろう。氷点下の中たった一人で山の中のテントで一夜を過ごすことになるのかもしれないのだから。彼等の勇気のためにもだまって杯を上げてやることにしよう。
太陽は西に傾き、その方角に編笠山が位置する。従って我々が幕営している場所は最初にその影となる.お湯が沸くまでの間、編笠山の影が我々の所を足早に通りすぎて行った。

ささやかな酒宴から簡素な食事が終わるまでの間、権現岳側の上の斜面にしばらく止まって動かなかった最後の薄い斜陽を見ながら寒さを堪えていた。僅かの間、外に放置していた水筒の水はもう凍り始め、
地表の草は白く葺き、土は霜柱で盛り上がりを見せ始めた。食事が終わると寒さに耐え切れずテントのなかで寝袋に包まった。夜の帳が訪れる前に眠気が襲ってきた。それに耐えようとしたが抗えなかった。

目が覚めたとき夜半を過ぎた時間であってほしいと目覚めと同時に願った。然し時計はまだ8時を指していた。宇宙の果てまで届きそうな長い夜がこれから続く。
しばらく起きている事にしたが、することは何もない。外は氷点下だ。時間を稼ぐためだけの会話とお茶を飲んだ。遠い向こうにある朝を待ち焦がれた。

白い靄に覆われた朝だった。テントに閉じ込められるのはこれ以上我慢できなかった。起床してすぐにテントの片付けに取り掛かった。既に一張りのテントは出発した後で、そこの枯れた草むらだけが周囲の霜から免れていた。もう一人はテントの中でまだ就寝中なのか、或いはテントを残し何処かへ向かっているのか判らなかった。

我々がそこを後にするまでついに彼は姿を見せなかった。紅茶を飲み冷たいパンをかじり、下山の用意をした。そこから編笠山の頂上へ至る道が編笠の真中を縫うように抜けている。
そこで折り曲げると編笠の左右がちょうどうまく重なるようだ。頂上までは30分くらいの道のりだ。上り口は大きな岩の連続で良くすべる。10分くらいそれが続いた。そこを通りすぎるとハイマツの林の中へ導かれた。編笠山の頂上は360度の大パノラマだった。
後ろに八ヶ岳の全容が聳え、眼下には富士見台高原、蓼科高原が広がっている。紅葉の最盛を過ぎているせいか全体が鈍く鉄の錆色を帯びている。この高度から見ると一様にそのように見える。今、初冬と晩秋の狭間に足をのせている。

鹿の湯という温泉は富士見台高原にあるホテルの一画に設けられている施設だ。これといって特色のある温泉ではないがこの辺りではここしかないので下山すると利用することにしている。泉質にどの程度の温泉成分がはいっているか知れたものではないがこのような所でも山の厳しさを味わった者には天国となる。
ここには露天風呂があるのが救いだ。露天風呂の廻りの林はまだ紅葉の最後の一滴を溜めていてお湯に浸かって眺めているとその林の遥か上の方で過ごした過酷ですばらしい時間がうそのように感じる。穏やかな紅葉につつまれた景色のなか、弛緩しきったお湯の中での回顧は厳しい初冬から晩秋へと季節をいっきに駆け下りてきた者だけに与えられる密やかな褒美だ。

打ち上げには蕎麦を求めた。小淵沢インター近くの小高い場所にその蕎麦屋はあった。運良く名前だけの手打ちではなく本物だった。三番粉まで使った太目の田舎蕎麦だった。蕎麦つゆは蕎麦の香りを損ねないように仕立ててある。ここの女将は多分地元の人ではあるまい。あかぬけた感じのする老女将だった。初老に属する婦人と老婦人の二人がその手伝いをしている.どこか趣味でやっているようなところが感じられるお店である。

蕎麦を頼む先からかぼちゃと冬瓜の煮物が出てきた。
続いて白菜に鷹の爪がたっぷりと入った浅漬けと沢庵を燻製にしたようなものがなにか柔らかいものに包まれてでてきた。きのこの天婦羅ともり蕎麦を頼んだあと、それらのお品から戴くことにした。外を眺めると小淵沢の秋が広がっている。窓に面して赤い実をつけた木が午後の陽射しに枝を寄せている。全体が黄色と赤で彩られた山裾の景色を眺めながら注文した蕎麦を静かに待っているとあと少しお銚子を追加して暮れていくこの秋といっしょにもうしばらく過ごしてみたくなった。

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