ゲンコツ

「ことばから見えてくる民族的背景を考察する」から今日はお父さんのジレンマを取り上げる。
本日のテーマ:カンクツムシラカッソォを考察する。

この言葉はイタリアカンツォーネの題名などではなく北浦という地域で昔からよく使われていた紛れのない日本語である。彼の地の悪たれ小僧共はこの爆弾が落ちる度にクモの子を散らすように逃げ惑った。漢字で書くと「拳骨を毟り食らわすぞ」となる。
普通に「拳骨を食らわす」であれば何ら疑問などないがこの「毟り」ということばが敢えて間に入ってくると気になる。何だろうとなる。

「毟り食らわす」とただの「食らわす」とにいったい何の差があるのだろう。本来「毟る」というのはそこに存在するあるモノを、例えばモノの表層から無理やり引きちぎるという意味で使われるのが一般的である。それでは「カンクツ」というのは拳を握り締めて作るものではなくて、もう既にそこに存在しているモノでそれを誰かが毟り取って食らわすものであろうか。木に生っている林檎を毟り取るようにしてそれを食らわすのだろうか。そうだとするとそのモノとは林檎ではなくて柑橘の類となろうか。「カンキツを毟り食らわす」ということになる。本当だろうか。

判然としないが先に進むことにしょう。次にそのカンキツを特定したくなるがそれはいったい何だろう。夏みかんであるとかハッサクではピンとこない。褒美の感が強い。それは猿蟹合戦の渋柿のように相手にダメージを与えるものでなければならない、そうでないと相手への打撃効果が薄れてしまうからだ。「当って痛くて渋くて食えたモノではない。」でなければならない。
ここまで考えると頭の中に自然と浮かんでくるのは青くて酸っぱくてそのままでは食えたものではないカボスだ。「カンクツムシラカッソォ」という意味は実は「カボスを毟り取って食らわす」という意味だったのだ。しかし何か変だ。言葉にその情景が浮かんでこない。

英語に It comes up from in the air. という表現がある。それは何もないところから急に現れたり生じたりするという意味だ。実は「カンクツ」もそうではなかろうか。
怒り心頭に達したお父さんの思わず頭上に振りかざした手のひらがクルリと空を切るや否やその手はもう拳を掴んでいる。その空を切る様がそこにあるはずのない所から拳を毟り取ったかのような動きに注目をして生まれた言葉ではなかろうか。

その解釈が正しいとすると「毟り食らわす」と、ただ「食らわす」とでは表現が格段に違うことになる。眉間に青筋をたて、怒りに上気したお父さんがもう自分を抑えられないところまできて、震える手で頭上に空を切り拳を握る情景をこの言葉は言い表そうとしているのではないか。思わずかざした手を我が子に振り下ろすことができずにいる親父のジレンマと危うく拳骨の難を逃れた悪たれ小僧とのやりとりが浮かんでこないか。

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