八ヶ岳登山紀行 初冬編1

風が一段と強くなってきた。紅葉が終わり梢はもう葉っぱ一枚すら残してはいない。小枝と小枝の間を通りぬける強い風はヒューヒューと冷たい音を発て、枝は狂おしく揺り動かされ、幹までがその動揺を隠せずにいた。西高東低の冬型の気圧配置は今シーズンになってまだ幾度もなくこれで2度目か3度目だと記憶している。夜半から荒れだした北西風は朝になっても止むことを知らなかった。これから登る山を見上げてみたが山はその裾を少し見せてくれるだけで全容を見せてはくれない。中腹から上は靄に覆われている。
登り始めた太陽がその低いところから弱い陽光を射し込んでくれている。それだけがその凍てつく朝に安心を与えてくれた。

東京を暗くなってから発ち小淵沢のインターをすべり出たのはもう10時を過ぎていた。途中僅かな食料と必要品を買い求め八ヶ岳山麓にあるここ観音平に着いたときはこの時期ではもう山に入ろうとする者などいないのか我々の他は車一台すら見ることができなかった。冷たい風が吹いていたがまだそれは小枝を揺らす程度のものであった。ワンボックスタイプの車の中で別に用意したバッテリーに照明器具をつなぎ灯りを確保し、携帯燃料で沸かしたお湯でホットウイスキーを作りそれを流し込むことにした。暖を取ることとその後の熟睡を得るためにはこれに限る。喉を幾度か通り過ぎた熱いものが次第に体を温め、それが脳に達した頃、気持ちが弛緩しはじめてきたのを覚えた。飲むにつれ外の風は怒りを増長させていくようにうなり音を発し始めた。

車の中の亜空間に身をおいた酔漢にはその音は別の世界の出来事でしかなく次第に耳から遠くなり明日への不安も消えていった。自然の摂理はその現実逃避を長い間は赦してはくれなかった。小用のためその小さなバリケードから出ることを強要された。酔った目はうなり音を発てている風の向こうにあるはずの漆黒の山肌を探し、うつろな思考は再び自然の過酷を突き付けられ現実に引き戻されてしまう。もはや山が人間を受け入れる時期は過ぎてしまっているのではないかと萎縮した気分にさせられる。全てのものが寝静まる夜と荒れ狂う自然の前では人間の思考は自ずと先細りとなるのかもしれない。覚醒している部分が酔っ払いにそう告げた。

北アルプスでは冬型の気圧配置になると日本海側を含め一帯が降雪となる。
しかし八ヶ岳周辺はその地理的位置により日本海側の気候条件下で直接捉えられることはない。日本海の水分を大量に含んだ空気はアルプスを越える際に雪に変わり、山々にぶつかりそこに落されていく。それを乗り越えてきた比較的乾いた空気が内陸へ吹き込まれるから八ヶ岳周辺一帯は冬型の気圧配置下では太平洋側と同じように晴れることが多い。然し山頂の標高は北アルプスの山々と遜色ないので厳しい気象条件となる。

登り始めて2時間もした頃から山は陽光を失い、風が白い塊を運んできた。それまでの景観は下草の笹に覆われていたがいつのまにか周囲は苔に変っていた。数年前に行った南の島、屋久島を思わせる一面の苔の世界に包まれた。この植物の様子から見ても季節を通してこの辺りは靄が発生しやすく苔を育むに好ましい条件になっていることを教えてくれる。亜熱帯の屋久島でも初夏の山頂で経験したように、その白い空気の塊は雹となり音を発てて我々を拒み始めた。小さな氷の球が降り注いで枯葉の上、肩の上、そこかしこで白い粒が跳ね踊る。それでも足を上へ上へと運んでいるとやはり汗を掻いてしまうがそれも僅かな休息の間に凍てついてしまう。

この辺りの標高で雹が降り出してしまうと山頂から僅かに下ったところにあるテント場辺りの様子が不安になってくる。夏でも日が落ち始めてからの山の重い急激な気温の低下はもう何度も経験している。抗いようのない途方もない力で地表の熱は奪われていく。山の神の所業を感ぜずにはいられない瞬間であり、大自然の前では知恵なしでは人の生命なんて蚊とんぼのようなものであることを痛感させられる瞬間である。

中腹の山小屋に近づくにつれて天気は回復し始めてきた。風は依然として止んではいないが陽光は再びそのやさしさを現し始めた。その頃から周囲の木々にシャクナゲが混ざり始めたのに気付く。標高が高くなるにつれてその数が増してきた。初夏に登った八ヶ岳の主峰である赤岳にはこの植物の自生には気が付かなかったが一峰に数えられるここ権現岳に至る登山道には夥しいほどの数のシャクナゲが自生していることに後で気付く事になる。山歩きをする度に頭の中にその香りが突然、侵入してきて一斉を洗い流してくれるように感じる瞬間がある。樅ノ木とかのマツ科の植物から放たれる森林浴に代表されるaromatherapy効果のある匂いだ。

この匂いを嗅いだ瞬間、日常に溜まったストレスが一つずつ剥がれ落ちていくのを感じる。特に脳の部位が薬草のようなもので洗われるような気がする。なんとも言えない瞬間だ。人間の遠い遺伝子の中に刻み込まれている記憶が呼び戻されている瞬間なのだろう。森林浴とはまさに人間の個体種が生みだされた原始の環境に身を置くことから得られる心身の浄化に他ならない。ジョン・レノンが作曲をしている際に「イメージしているのはもっとカンナ屑の匂いがするようなものなのだ!」と言ったという逸話がある。共通したものがあるのかもしれない。それはともかく、時には辛く感じる登山にその魅力に引き付けられ、再び山に呼び戻されるのはこのような原始の記憶が作用しているのかもしれない。従って富士山のような植物を持たない山には魅力を感じることができない。

初冬編 2 に続く
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