八ヶ岳登山紀行 初夏編

午前10時には山腹の行者小屋についてまずテントを張り
荷物をそこにおいて軽装で八ヶ岳山頂の赤岳まで登ろうというのが入山する前の計画だった。

金曜日、仕事もそこそこに切り上げてパッキングに取り掛かったのは会社に勤めている人々がまだおやつのお茶を飲み干し、これから残りの仕事に取り掛かろうとする頃だった。
荷物の準備は整った。これからは風呂のない所に行くので少し汚れた体に熱いシャワーを掛け、髭でも剃って身奇麗して出掛けようと思い浴室へ向かった。都会の生活からできるだけ遠ざかり、人間本来の自然の中にしばらく身をおこうとした思いから発した山登りなのに行った先の所で普段の生活の延長をまだ引きずろうとしているようだった。その夜は車で入山口まで行って車の中でウイスキーを飲んだ後寝袋に包まった。

梅雨時期の登山なので天候がめまぐるしく変わる。ましてや山の天気だ。知りうる限りの情報を元にたてた計画は初日に殆どの山岳行程を済ませ翌日は下山だけにして八ヶ岳山麓の温泉にでも入った後、地元の美味いうなぎ屋にでも入って冷たいビールで今回の労を労おうと考えていた。二日目はもう朝から雨になると思っていたからだ。

中腹の山小屋のそばでテントを張り終わっていざ残りの山頂までの行程に向わんとしようとした途端に雨が降り出してきた。
oh boy! 登山計画は時間に拠るところが多いのだ。これから山頂まで行って再びここへ帰ってきて明るいうちに夕飯の準備に取り掛かるには遅くても夕方4時には戻ってこなくてはいけないのだ。雨のやむのを待っている時間なんかない。

山頂まで行くには比較的安定したはずだった初日しかないと思っていたのにすぐに止むだろうと思った雨は予想に反して次第に本降りになり、それを通りすぎて豪雨に近くなってきた。
これからのルートは山頂が近いので岩場が続出することになる。無理をしても登山としては面白いものにはならないだろうと思い、くやしいけど山小屋で酒を飲むことにした。まだ昼前であった。辛いことになる。時間を持て余す。たぶん昼寝もするだろう。そうなるとテントの中の夜は想像を絶するほど長いものになるだろう。
背中が痛くて眠れない悶々とした時間がテントの中で永遠に続くことになろう。
などと思いながら山小屋で買った割高のビールを飲み干した後、こんどは自前のホットウイスキーを流し込むことにした。

最近の登山では夥しいほどのオバサン達を見かける。
場所をわきまえない言動と節度のなさに閉口させられときがある。
ある日、確か丹沢の何処かだったと思う。トランジスタラジオの歌謡番組にチャンネルをあわせたオジサンとオバサンの一行と偶然、併行して歩く羽目になったことがあった。ブナ林から漏れてくる光が下草の熊笹に差し込んでくる風景の中で北島三郎を聞くことになった。死にたくなった。

しかし今回の登山では入山のときから大学の山岳部とかサークルの連中が多く目に付く。しかも方々の大学が八ヶ岳を目指したらしく、山は若い連中の屈託のない歌声と怒号と化粧気のないジャージ姿の娘さんの汗が周囲にこだましている。その光景が若々しく新鮮に感じられた。
最近の妙な言葉とどこから湧いてくるのかわからない思想を持つ或いは何も持たない昨今の若者に辟易していただけの印象が少しだけその救いを得た。

恐ろしく長い時間の後、二日目の朝がやってきた。何度目か知れない目覚めの時、テントに打ち付ける雨音はもうしなくなくなっていた。
周囲ではもう山岳部の連中が何か今日起きるであろう希望に声を弾ませていた。
その声に雨の気配が完全にないことをテントの中で悟った。
時計を見ると朝の4時半を指していた。もちろん夜はもう明けていた。
すぐにテントをたたみ、熱い紅茶で冷たいパンを流し込みながら、前方の霧が一部晴れた箇所から去年登った穂高連峰とその前に登った槍ヶ岳に続く北アルプスの全貌を見入り、その時の記憶を探ろうと試みた。先程、テントのそばにいた学生と同様、今日現実に訪れるであろう希望に胸を膨らませながら尚も冷たいパンをかじり続けた。

赤岳山頂にたどり着いたわずかな時間だけ、幸いにも360°の視界が開けた。
「天ここにあり」と感じた。先程見た北アルプス。立山連峰、富士山、近景には麓の蓼科高原、野辺山高原等々の景色が映る。太い木材でこしらえたデッキの上で朝食を作っている人たち、記念写真を撮っている初老の夫婦、ここぞとばかりの学生の怒号に似た歌声、娘さんの汗とそれを玉に撥ね返す若い肌と白い笑み。八ヶ岳の夏が始まろうとしていた。

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